「またいつか使うかもしれない」という気持ちは必要か?
必要だ。
必要だけど、そこでストップしては行けない。
その先を考える必要がある。
さてこの写真、菜箸ではない。
編み棒である。
いまからおよそ20年前、初めて付き合った彼にセーターを編んであげた。
お揃いにしようと思って自分のも編んだ。
何ヶ月かかっただろう?3〜4ヶ月?
毎日学校の帰りに電車の中で編んだり、学校が休みの日に編んだり、バイトもしてたからその合間に我ながらよく頑張ったなあ、当時ファンだった森脇健児さんのセーターブックを見ながら、彼のセーターはモスグリーン、私は水色。遠い記憶なのにまあここまでよく覚えているよね。
多分その時に使ったのがピンクの編み棒。
それ以外のものは、多分母からもらったのが数本、自分で買ったのが数本。
そうだ!母からもらった編み棒で、小学校4年生の時に赤いマフラーを編んだことを思い出した。中学生の時か高校生の時にも、10センチ四方のパーツをいくつも編んで(い色は白と黒)パッチワークにして、座布団カバー作ったのも今思い出した。
あれは確か父が東京に単身赴任になった時に持って行って、床に敷いてご飯食べてたってことを母から聞いた。でもよく考えたらパッチワークはかぎ針編みだった。
なんか、写真一枚とっただけなのに、いろいろ編み物作ってたんだなー。しかもそれにまつわることをよく覚えている。
今の私には、この編み棒必要だろうか?
最後に編み棒を使ったのはいつだったか、ああ、そうだ、2012年に腹巻きを作ったんだった。編み図の本を買ってちょっと難しい模様にチャレンジしたんだった。あの本は、今年の7月に錦糸町のフリマで売っちゃった。
さて、思い出はたくさんあるけれど、今の私に編み棒が必要かというと、本を読んだり、ブログ書いたり、誰かと会ったり、仕事のアイデアを考えたりすることに多くの時間を使っていて、多分のんびり編み物をする時間は数年は来ないだろう。
編み物がしたくなったら、100円ショップに買いに行けばいい。
いろんなものを編んだこと、こうやって思い出せるし、思い出は記憶の中に入れて、頑張ってくれた編み棒たちにはさよならをしよう。